授業|宮沢賢治と sekai no owari|やまなしが表しているものと 雨が表しているもの
去年、子どもたちと創った授業のなかで、面白かったとおもったのは、宮沢賢治の『やまなし』とsekai no owariの『rain』とを対比して読むという活動です。
宮沢賢治研究者や、まじめな先生方、『やまなし』の実践を追求している方々からは、厳しい叱責をいただいてしまいそう。そして、sekai no owariのファンの方々からもクレームが出そう。でも、ぼくは、この授業を、本気でまじめに考えて実践した。
子どもたちの反応もよかったと思っているんです。
もちろん、宮沢賢治『やまなし』の読み取りをしたあとでのことだということは、先に書いておきます。
ぼくたちクラスは、「かに」が表現しているものは、「かにじゃないのかもしれない」と考えて行った。「かに」は宮沢賢治自身かもしれないし、「かに」は自然の中で生きる人間のことなのかもしれないなど、様々な見方が交わされた。また、「やまなし」が表しているもの、「かわせみ」があらわしているもの、等、様々なものについて考えて行った。
こうして、ぼくたちは、『やまなし』と向き合いながら、作者というのは、登場人物などに別の意味を持たせることがあるのかもしれない。それが何かと想像するということは、作品を読む時に楽しめるんだということを学んでいきました。
『やまなし』の一通りを終えて、ぼくは、sekai no owariの『rain』の歌詞を子どもたちに提示しました。
ねえ、ところで、この歌の中の、「雨」ってなんだろう?「虹」ってなんだろう・・・?
虹が架かる空には
雨が降ってたんだ
虹はいずれ
消えるけど
雨は草木を
育ててゆくんだ虹が架かる
空には
雨が降ってたんだ
いつか虹が
消えてもずっと
僕らは空を見上げる(sekai no owari 『rain』より)
このとき子どもたちは、rainを読みながら、
・雨っていろいろな苦労のことなんじゃないか?
・虹って、「いいこと」ってことじゃないか?
・虹って、「幸せ」ってことじゃないか?
・虹って、雨の後に出るんだよね・・・。っていうことは、sekai no owariが言いたいことはさ・・・
と、話を展開させていきました。
ぼくは、子どもたちに授業をする時、いつも、子どもたちのなかに、どのように残るかということを考えています。
子どもたちには、言葉を使うことを大切にしてもらいたいと思っています。
そして、言葉を楽しめる人になってほしいと願っています。
卒業したあの子たち、きっとつらいことがあると思う。苦しいことがあると思う。
そんなとき、街角で聞こえてくる『rain』が、あの子たちをタイムスリップさせてくれるかもしれない。そうしたら、子どもたちは、もう一歩前に踏み出せるかもしれない。
ぼくは、そう思います。
卒業式のあと、ぼくたちはこの歌を歌いました。
ぼくたちの、思い出の歌のうちの一曲として。。。