ぼくのきせき

「子どもの心に火を灯す ⇄ 自分の心に火が灯る」 実現めざした学びの軌跡

特別支援教育に思う|Bくん保護者の覚悟と、それを受ける担任の覚悟。多様性は力だと信じる。

昨年度、ぼくのもっていた学級には、支援を必要とする子ども(Bくん)がいました。

学年がはじまるとき、ぼくは問われました。教室内で見るか、他に任せるか・・・。

ぼくは、迷わず、クラスの中で他の子どもたちと一緒に見ていくことを選びました。

 

Bくんに対応するなかで、他の子どもたちとの間に問題が生まれたり、クラスが落ち着かなくなったりするなら、他の子どもの学習に対して申し訳ないという気持ちもありました。ほかにも、ぼくのクラスがバタバタしたら、他のクラスに迷惑をかけるとか、一緒に組んでいる学年の先生に悪いという気持ちもありました。

 

だけど、ぼくは、もともと、「仲間を外に出して、よし」とする考え方と相性がわるいんです。なんどか挑戦しましたが、この考え方自体を受け容れることができないんです。「少人数が効率的」との考えで、学級を分割するという考え方はわりと一般的になりつつあるのですが、この考え方も納得いかないタイプなんです。

「できるから、こちら」という考え方も、「ゆっくりにできるから、こちら」という考え方も、どちらもぼくの考えとはちがう。ぼくは、「できるなら、たすけよう」「たすけてもらったら、ありがとうと言おう」というスタンスが基本。教室内に「できる」「できない」があるから、お互いにやさしくなれるチャンスが生まれると思っているので、分けるのが苦手なんです。ぼく自身も、頑固すぎるな・・・って思うのですが・・・。

 

でも、すくなくとも、1年間が終わるときには、クラスの子どもたちはみんな、Bくんに感謝していたと思います。担任のひいき目かも知れませんが・・・。Bくんが教室に入っていっしょに学んでいるとき、クラスがひとつになるのを何度も目撃してきました。

 

ぼくはこの年、市内の研究授業をすることにしていたのですが、そのことをBくんの保護者に伝えました。すると、「迷惑かけるといけないから、学校休ませましょうか?」と言われました。ぼくの意図は違いました。「そういうことをして、ご迷惑ではないですか?」と、保護者としてのご意見を聞きたかったんです。ですから、ぼくは、「それは必要ない」といいました。「たしかに、Bくんがいることで想定外のことは起きるかもしれません。でも、それだから、Bくんを外に出すという決断をしてしまったら、ぼくはもう、他の子どもたちの前に立つことはできません」「子どもたちに先生って言われるからには、計画が崩れたとしても、胸を張って『クラスみんなで挑戦したよな』と、言い合いたい」「そして、なんとしても、挑戦してよかったと、みんなが思えるようにもっていきたいんです」と伝えました。

お母さんは、受け止めてくださいました。「この学校にBをいれてよかった」と言いながら、おっしゃいました。

 

「ずっとなやんできました。特別支援学校に入れるという選択肢もあったんです。でも、小学校だけでも、通常の学校に行かせたかった。でも、これは、わたしのエゴかもしれない。まったく、Bのことを考えていないのかも知れない。わたしは、ずっと悩んできました。たくさんの子たちに迷惑をかけてきたことも知っています。そしてたくさんの子たちが支えてくれたことも知っています。この子、幸せですよね。よい友だちに囲まれて。来年、中学では特別支援の中学校に入れます。でも、その前に、クラスの友だちに大切にしてもらえる経験ができるっていうのは、とっても幸せです。ありがとうございます、ありがとうございます。

もし、Bのことで何かあったら、何でも言ってください。わたしは、もう、みなさんに謝りに行く覚悟はできています。クラスの前で、みんなに頭を下げさせていただきます。」

 

 

4月のスタートから3日目のできごとです。

ぼくは、覚悟の大きさを聞きました。母としての覚悟。親としての覚悟。

そして、ぼくは、このとき、これを受け止めることに、すべてをかけようと思いました。

 

ぼくは、言いました。

「これまであまりなかったかも知れませんが、4月の授業参観も、Bくんにはクラスにいてもらいたいです。なんとか、Bくんとみんなとがつくるクラスをごらんにいれますので、許していただけますか。もちろん、何かむずかしい状況がくるかもしれません。実際授業がはじまれば、予想外のことは起きます。もしかしたら、Bくんの特徴がみなさんの目に留まる結果になるかもしれません。だから、これは、お母さんが受け容れてくださらなければできないことです。

ぼくは、この出発で、Bくんを「クラスの大事な一員とする」というメッセージを、ぼくの意志を、子どもたちにも保護者のみなさんにも伝えたいんです。よろしいですか。」

 

お母さんとぼくとのなかでの対話は、ここから始まりました。

 

春の運動会、彼は友だちと一緒に最初から最後まで、裸足で組体操をしました。

連合運動会、彼は自分の種目の練習に必死でした。

修学旅行、もちろん、一緒に行きました。笑顔たくさんで一緒に写真を撮りました。

卒業式、彼は、家の人に「ありがとう」を伝えました。大きな返事で、証書を受け取りました。

 

いま、「インクルーシブ」とかいろいろな言葉が使われます。

でも、ぼくは思います。

一番は、家の人の覚悟を、学校が知ることです。

その上で、あとは、自分にその覚悟に答える覚悟があるのかということです。

 

 

Bくんがいなかったら、ぼくの去年の一年間はなかった。

Bくんと一緒の日々は宝の日々でした。

 

みんな違いをもっている。

その違いをいかにいかすか、それはぼくの考える道。

学習ができる、できない。

スポーツできる、できない。

ハンディキャップがある、ない。

しゃべるのがとくい、得意でない。

いろいろな違いがある。

できなくていいわけではない。でも、できないから挑戦するのならば、できないことに意味がある。できるからいいわけではない。でも、できるから、できない友だちに手を貸すならば、できることに意味がある。それらの違い=多様性は、学級の力だし、クラスの宝だと信じます。

 

Bくん、ありがとう。

あなたとの出会いが、いまの先生をつくっています。