ぼくのきせき

「子どもの心に火を灯す ⇄ 自分の心に火が灯る」 実現めざした学びの軌跡

日本語学級・授業|アプリを使う・・・学校の意味・公教育の意味を問うことにつながる

教科書では当たり前のように、漢字が使われています。もちろんルビなどをふればよいという話なのですが、やっぱり子どもたちにとって「漢字」は、大きな障壁。ぼくは、少しずつ、アプリを使うようになりました。

 

4年生・5年生など、大きくなってきてから転入してくる子どもたちにとっては、とくに、漢字の壁は大きいです。

ぼくは、漢字はまず、「読める」ことを中心に指導していきます。

たしかに、「書ける」ことの大切さはあるのですが、とりあえず第1ステップとして、ひらがなカタカナの指導に続いて、「漢字の読み」を大切にしています。

これまでは、自分がこれまで受けてきた教育の経験や、授業で行ってきた漢字指導をもとにしてやってきました。ノートとテキストが中心です。

日本語学級に来てからも、そういう形で先輩方がやっているのを見てきたし、当たり前だと思ってきました。

 

でも、いまはすこし、アプリを使うようにしてきています。

やはり、個に対応するには、データをデジタルで処理し、それを学習のプロセスにフィードバックできることの効果は大きい。

 

ただ、これって大きいことです。アプリを導入し、活用するということは、あらためて「学校の価値」「公教育の意味」を考えるということを求めてきます。

クラスでタブレットやパソコンを使っている人も、そうだと思います。

使うのは容易ですが、すてきなアプリが教えることを助けてくれた場合、自分の仕事が何になるのかということを、しっかり整理した方がいい。

 

それをしておかないと、ぼくたちの仕事、けっこう危機に瀕すると思うんです。

「学校だから」子どもたちが生徒として存在してくれていると考えると、「学校から出たら」ぼくに何ができるのか。

こういう問いを追究するようになったとき、ぼくは、つらくなりました。

でも、最近は、この要求にこたえられないならば、これからの教育では役に立たなくなってくるという気さえしています。

「学校の先生だから」信頼を得てきた者は、「学校の信頼」が落ちれば、何ができるのでしょうか。ぼくは、「えっへんたろうだから」信頼を得られるという存在になっていきたい。そんなふうに、思うようになっています。