ぼくのきせき

「子どもの心に火を灯す ⇄ 自分の心に火が灯る」 実現めざした学びの軌跡

「教養」って古いのかなぁ・・・。1990年代もアクティブな学びを求めてた!

家の本棚のなかに、教養という言葉をタイトルに含む『教養としての言語学』という本がありました。

そういえば、最近あんまり、「教養」ってきかないなぁ・・・。

どちらかといえば、専門知識を身につけることが重視されてますよね。

教養って、古いのかなぁ・・・。

 

 

 

教養って何?ーー一言語学者の見方をのぞきこんだ

『教養としての言語学』っていうタイトルを見て、

「教養」とはいったい、どんなもんだろう・・・?

って、ふと、考えました。

 

この本は、

岩波新書から出ていて、

第1刷が出されたのは、

1996年。

 

 

1996年9月20日に第1刷が発行されて、

その次の月10月24日には第3刷が出版されたみたい。

その頃読まれた本なんだろうなぁ・・・なんて思いつつ、

ページをぺらぺら。

 

「まえがき」のなかに、こんな部分があります。

 

変貌し続ける社会の動きに対応していくための「教養」とは一体どのようなものかを、私たちは本気で考えてみる必要がある。今こそ多くの人々が自分の体験や研究、教育の実績をふまえた解決作を出しあって、真剣に議論すべき時だと思う。

 

なんだか、この本が書かれた1990年代って、

 

今の社会の様子と、

 

結構似ているのかもしれないなぁ・・・

 

 

(知識分野と技術革命が拡大するのに)比例して重要性を増す資源環境問題など、いずれも従来の学問体系や思考の枠組では、充分に対応することが難しい以上、これまでにもまして新しい考え方、自由な発想が求められている

 

うんうん。いまの問題もそうだ。

AIとかIoTとか、

バイオテクノロジーとか、

環境問題とか、

技術とか科学のことを考えると同時に、

「人間ってなんだろう?」

とか、

「人間として生きるってどういうことだろう・・・?」

とか、

むずかしいことを考えないといけないことばっかり。

 

著者の鈴木氏は次のように述べているんです。

 

教養は、講義型授業では身につかない|アクティブラーニングか?

私の考えるいま必要な教養とは、たくさんの知識を身につけることではない。もちろん何も知らなくては困るが、もっと重要なことは、知識を自分のなかで位置づけ、行動の指針となるような方向性を育てることだと思う。・・・傍観者的な態度で学んだ知識は、現在のように知るべきことがあまりにも多く、表明される意見が多様をきわめる時代では、知識や意見を自分に引きつけ、自分の立場からまとめ整理する態度を身につけないと、頭の中はめちゃくちゃに混乱し、首尾一貫した行動や生き方ができなくなる。

 

「どう生きるか」ってことを考えなくっちゃいけないってことだよな。

するどい指摘だと思いませんか。

 

このなかの、

 

「傍観者的な態度で学んだ知識は、・・・知識や意見を自分に引きつけ、自分の立場からまとめ整理する態度を身につけない」

 

という部分は、

まさに、

いま話題の

 

先生から子どもという、

一方通行的な、

講義スタイルの授業を疑問視する声につながるな。

「アクティブラーニング!」とかね。

 

でも、

学校現場を見ていると

あるんだよな、

まだまだ、そういう講義的なスタイル。

 

やっぱり、このころから、

問題としてとらえているんだよな。

 

そもそもぼくたちの姿も傍観者的?ー勉強嫌いを増やしていいの?

考えてみれば、ぼくたち自身が傍観者的なのかも・・・。

 

ぼくたち小学校の先生は、

教科書に載っていることをわりと

そのまま教えてしまう。

 

全科を教えるからかもしれないけど、

よっぽど 「これ!」 という教科がないと、

すべての教科をさらりといっちゃう。

 

「仕方ない」

ってのもあるけど、

この教え方、

勉強嫌いを増やしてる!!!

 

さらに、実際には、

教えないとまずいと考える風潮もある。

 

さらにさらに、

家庭によっては、

「教科書を教えてくれればいいんです・・・」 

ってな考え方をしているところも少なくない。

 

学校の求める学びの種類・質を変えていかないと、現場で理想が現実にならない!

でもさ、

これってよくないよな。

もっと社会全体で、

勉強嫌いをつくること、

学びから離れる子どもを生み出すことが、

危険だということを

広く  強く

認識した方がいいと思う。

 

この認識が広がらないと、

どんなに 指導要領が新しくなったって、

どんなに 評価規準が新しくなったって、

 

社会が

保護者が

学校に求めるものを変えていき

学校も変わっていかないと

理論が理想が

現実にならない!

 

 

 

もちろん学生にも好みや性格の違いなどがあって一様な反応は期待できない。先生方の場合も同様である。しかし多数の学生が数多くの教師と出会うわけだから、なかにはこれだと自分で納得のゆく考え方、生き方の糸口をつかむ者も出てくるはずである。各自がそれぞれもっていながら自分では気づかない個性、一人一人が内に秘めた何かを引き出す手伝いをすること、これが私の考える「教養を身につけさせること」の主な目的である教養とは自分でものが考えられ、自主的に行動できる人間をつくる準備作業なのである。

 

 

う〜ん。

このままでは、子どもを社会に送り出せないよなぁ。

これから長い人生が待っている、

そしてそれも人類が未だ経験していないような新しい段階を生きていく

子どもたちを、ぼくたちは教えている。

 

問題意識はあるんだけどなぁ・・・。

なにが、できるんだろう・・・ってなると、

<目の前の子どもたちのことで真剣になる>

っていう、いつもの納得のしかたになってしまうんだよなぁ・・・。

 

 

教養としての言語学 (岩波新書)

教養としての言語学 (岩波新書)