ぼくのきせき

「子どもの心に火を灯す ⇄ 自分の心に火が灯る」 実現めざした学びの軌跡

お父ちゃん先生として感じる疑問ー学ぶことをつまらなくさせる「学校」って何なのよ?

うちの息子、新しいことがわかった時、ひらがなが使えた時、ベイスターズの選手の歌を歌う時、おとうちゃんにピアノを教える時、いつも楽しそう。学ぶって、楽しいことなんじゃないかな?

もし、学校というところに入って学ぶことが嫌になるなら、学ぶことを嫌にさせる「学ぶところ」って、なにか間違えていませんか?この間違いって、大事な息子の人生にとって、大きなことですよね。

 

いつも教育現場ではたらく<ぼく>と父ちゃんとしての<ぼく>が、その狭間で感じている根本的な疑問を聞いてください!

 

 

 

 

 

学びについての議論あるあるーぜったい、どちらかに流れちゃう。

 

学習のことにメスを入れようとすると、

きまって議論は次のどちらかに流れます。

 

それは、

 

「何を教えるべきか」

 

あるいは

 

「どれだけ教えるべきか」

 

です。

 

たとえば、

最近の道徳教育についてなどは、「何を教えるべきか」に流れている中心です。

学校の問題あるいは子どもの問題があると、「何を教えなければいけないか」をかんがえはじめる。

「~~を教えていないから、いじめがなくならない」などという議論ありますよね。

 

また、「ゆとり教育」についての議論も似ています。

「教える量が減ったから・・・」という教育論もよくききますが、これは、「教える量」に話が流れている例です。

 

ぼくは、そこに向かいたいのではありません。

 

ぼくが向かいたいのは、もっと種類がちがうところなんです。

 

いま、

目の前の子どもたちも、

その保護者の方々も、

また社会の人々も、

学ぶことはつまらないこと

とか

学ぶことはしんどいこと

などととらえているけど、

それは、どうしてなんだろう?

そして、そういう考え方の根っこは

どこにあるんだろう?

 

こういうところなんです。

 

ぼくは、

「もっと つめこめ!」

とか

「もっと へらして、ゆとりをもとう」

とか、

そういうことを話題にしたいと思っていないんです。

 

そもそも、

学びを嫌がる子どもたち、

それはいったい、

学びの何をつまらないと思っているのか

学びからどうして逃げたくなるのか・・・

そういうことを問いたいと思うのです。

 

おわりに:父ちゃんとしてのぼくの 関心事

息子を見ていると、

新しいことを学ぶのは、楽しいんです。

 

ドラえもんを見ながら、

のび太くんの様子を見ながら、

「お父ちゃん、テストってむずかしいの?」「100点取れなかったら怒る?」

なんていっていますけど、

 

自分で迷路がとけたときも、

自分でひらがながかけた時も、

自分で漢字を覚えた時も

自分でベイスターズの選手の名前を言えた時も、

自分でトイレに行けた時も、

あたらしい世界に入っていった時、

息子は本気で嬉しそうだった。

 

で、

もうすぐ 1年生なんです。

この息子も、

学びがつまらなくなっていくのだろうか・・・・

 

だとすると、どこか間違っていると思うんです。

 

もし、学校というところに入って学ぶことが嫌になるなら、

学ぶことを嫌にさせる「学ぶところ」って、なにか間違えていませんか?

 

学校は、どんな学び観に支えられていて、

それは、人が学ぶというこうとと、どのようにズレているのか。

 

ここを、考えることは、

まずは、

多くの保護者にとって、

そして、つぎに、

学んだ人々の成長を待っている世界の人々にとって

大きな関心事ではないでしょうか。

 

みなさんは、どのようにお考えですか?

 

 

f:id:nobounds-cloud:20190221104215j:plain