「学ぶ」を問い直すと、先生と子どもの関係は、ひっくりかえってしまった!!
子どもたちが先生から学ぶということを、ぼくたち先生の立場にある者は、当然のこととして受け止めている傾向があります。でも、「学ぶ」ということについて考えていくと、「先生=教える」という固定した見方が生み出している先生ー子どもの関係性を、変更する必要性が見えてきます。
「先生は、子どもたちに、『先生』とよばれたときに、先生になれるのです」
「先生から学ぶ」という考え方
これも、
実は、
ある 考え方にもとづいています。
それは、
先生が多くを知っているから、
先生が、子どもたちが学ぶことを選び、準備する
とうことです。
この場合、子どもが学ぶことの源は、
すべて先生に独占されているわけです。
そんななかで、先生は、
子どもたちに、まとまりとしての知識や技能を与える
のです。
このとき、
子どもたちが誰であっても、
その教える内容ーまとまりとしのて知識・技能ー自体は
何の影響も与えません。
「子ども」という教える相手が誰であっても、
教える内容は変わりらないのです。
でも、
この前提こそが、
学びをつまらないものにしてしまっています。
「ぼくでなくても学ぶ何か」
を
「将来のため」
「使うときが来るかも知れないから」
という理由で蓄える。
これを、学びとする場合、
「自分」という存在は、
無視されています。
それでは、学びはおもしろくない。
この場合、
「使うときが来るかも知れない」
という期待さえも、
自分で見つけたものでなく、
考える前に、教科書に書かれている、与えられたものです。
それでは、
学ぶ意欲が出てこなくても
無理はありません。
<あなた>だから
<こういう状況>だから
<今><ここで>
こういうことを学ぶ意味がある
そういうメッセージのこもった
学びがなければ、
子どもたちが
学びたいと思うはずがない。
学びの考え方が変わると、「分からない状態」の捉え方が変わる!
<あなた>だから
<こういう状況>だから
<今><ここで>
こういうことを学ぶ意味がある
そこには、学んだ結果<なりたい自分>が、
具体的に想像されています。
だから、学ぶのです。
ここでは、動機がはっきりしています。
さて、ここで
<あなた>
は、目の前に出された課題が<分からないという状況>です。
そして、
だからこそ、
<今・ここ>で学ぶ必要があるのです。
そうすると、
<あなた>がいるから学習が始まるのです。
つまりは、
あなたの<分からない状況>こそが学び合いのきっかけをつくっているといえます。
そうすると、
<わかっていない状態>は、
クラスにとって、
愛おしい状況であり、
大切にされる状況なのです。
ここではじめて、
学びが成立するからです。
クラスは、
<分からない状態>のあなたに、
「成長させてくれてありがとう」
と感謝することになります。
でも、
このような学びの中で、
好成績にたどりついた子どもを見つけ、
その子にインタビューをすると、
きっとその子は、
「友だちのおかげで」
分かるようになりました。
といいます。
ここにも、落とし穴があります。
この「友だちのおかげで」
を勘違いしてしまうのですが、
この子どもは、「友だちのおかげ」といったときに、
新しい知識や技能が身についたと思っていますが、
それは、周囲がそのように理解しているからです。
本当は、
「クラスが学び合う集団になることに参加したし、貢献した」
ということなのです。
クラスの中で「分かる」という
とても個人的っぽい出来事は、
ここで、
けっして個人的なことではなく、
個人の脳の中で起こっていることではなく、
集団が全体として成長している姿だということができます。
学びについての考えを変えることがぼくたちに求めること|先生ー子どもの関係の変化
つまり、
「学び」についての考え方を変えることは、
「分からない状態」について再評価をすることにつながり、
ぼくたちの授業を
根本から作りかえるように
迫ってくるのです。
単に
先生から学ぶ
ではなく、
先生に教えることを提供しているのは、
学ぶ側なのです。
学ぶ側の理解をなくしては、
教える内容すら決められない。
それが、
ぼくたち、「先生」という人たちの仕事なのです。
ぼくは子どもたちに、
年度末によく言いますが、
先生を「先生」と呼んでくれる子どもたちがいるから、
先生は先生でいられる
先生と子どもの順番は、
そういう順番なのです。