学級経営|心理学|まだ学校の先生の役割はある。ただ、今までの当たり前の中には見直す点もたくさんある。
ヴィゴツキーは、ぼくのような学校現場の人間(教育の大切さを感じつつも、現在の学校教育のあり方に限界や問題点を感じている者)にとって、刺激的で大切な観点を与えてくれます。こういう古典にあたると、結局、教育の世界って、同じような内容を、「まるで自分が発見したかのように語る」ということをずっと繰り返しているんだなぁ・・・と思うんです。
ヴィゴツキーの独創的なアイディアのひとつの<発達の最近接領域>の理論。
この理論で、子どもの精神発達と教授ー学習との関係を深く見ていくことができます。
自分たちが受けてきた教育や自分たちが当然と思っている学級の雰囲気を打破し、再創造していくためにも、こういった考えを学ぶことの意義は大きいと思います。
今回の「ぼくの学び」は、柴田義松先生にお世話になります。
著書名は、『ヴィゴツキー入門』です。ぼくが、大学院生時代に出会った本で、なんども読み直しています。ありがとうございます。
- ヴィゴツキーが説いてくれること
- 「現下の発達水準」だけでなく、<発達の最近接領域>に目を向けよ!
- <発達の最近接領域>に目を向けるということは、明日の発達に目を向けるということ
- 子どもの思考の特質に合わせる教育への批判
- ヴィゴツキーの2つの仮説
ヴィゴツキーが説いてくれること
ヴィゴツキーは、子どもの精神発達研究の過程で以下のことを説いていきます。
・教師の先導的役割の必要性
・「子ども自身の積極的な内面的活動の必要性」
・「子どもたちの集団的・協同的活動の必要性」
「現下の発達水準」だけでなく、<発達の最近接領域>に目を向けよ!
子どもの発達状態を評価するときには、「現下の発達水準」だけでなく、「<発達の最近接領域>をも考慮しなければならないというのが、ヴィゴツキーの主張。
よく使われる例は、園芸家の例。
園芸家は、自分の果樹園の生育状況を知るのに、成熟した、身を結んでいる果樹だけを見るわけではない。心理学者も同じだということ。
従来の知能テストは、子どもの知能の現下の発達水準をみるもの。
ここでは、子どもが自分一人で、独力で解いた解答を指標として評価する。
当然のこととして、他人の助けを借りて出した答えは、何の価値もないとみなされる。
対して、発達過程を真にダイナミックに捉えるには、他人の助けを借りて何とか出した解答こそ大切にしなければならないという発想を要求する。
ここには、ヴィゴツキーの根底となるアイディアがある。それは、他人の助けを借りて子どもがきょうなし得ることは、明日には一人でできるうようになる可能性がある、ということ。
こうして、ひとつの公式が生み出される
「子どもが一人で解答する問題によって決定される現下の発達水準」ー「協同の中で問題を解く場合に到達する水準(これは、明日の発達水準)」=<発達の最近接領域>
<発達の最近接領域>に目を向けるということは、明日の発達に目を向けるということ
ヴィゴツキーが目を向けたのが、「すでに成熟した機能」ではなく、いままさに成熟しようとしている機能であった。言い方を変えれば、「明日の発達水準」を示そうとするのが、最近接発達領域。
協同学習や模倣の教育的意義:
・協同学習のなかで、子どもたちは、つねに自分一人でするときよりも、多くのことをすることができる。
・ここには、周囲からの模倣が存在する。
・模倣は、「自分一人でもできる」と「自分一人ではできない」への移行の状態。
・学校における教授ー学習は、ほとんど模倣に基づいているといえる。そこでは、子どもが自分一人ではまだできないことをを、教師の協力や指導のもとでできるということを学んでいる。
・明日に目を向けて、今日、模倣によってできる範囲を考えるのが、教師の役割。(1年生に微分を理解させることは、不可能)
・この可能性を決定するのが、子どもの最近接発達領域。
子どもの思考の特質に合わせる教育への批判
ヴィゴツキーは、ぼくのなかの常識に問いかける。
昨日の発達水準ーいまの子どもの成熟している部分ーにのみ基づいて行われる教授ー学習ではダメだという。
「思考の特質に合う」ということを、ぼくはよいことだと考えているところもある。
でも、ヴィゴツキーは、それは、「もっとも抵抗の少ない線を目標とし、子どもの強さにではなく弱さに目を向けた」(『思考と言語』p.303)ものだと表現する。
「思考の特質に合う」かどうかではなく、子ども自身が独力ではできないことに目を向けて、できることからできないことへの移行を考慮しなければならない、という。
自分がやっていることは、どっちなんだろう・・・。
発達と教授との関係に関しての、ヴィゴツキーの結論
教授は、発達の前を進むときにのみよい教授である。そのとき教授は、成熟中の段階にあったり、<発達の最近接領域>にある一連の機能を呼び起こし、活動させる。ここに、発達における教授の主要な役割がある。(『思考と言語』p.304)
ヴィゴツキーは子どもの精神発達を、つねに、文化的・社会的環境と教育との深いかかわりの中で捉えようとしてきた。これは、ピアジェが、子どもの心理の研究において、「教授的干渉」をできるだけ排除しようとしているのとは対照的。
ヴィゴツキーの2つの仮説
ヴィゴツキーの背景には、2つの仮説がある。
①人間を他の動物と区別する基本的なものは、「道具」の使用である。
人間の高次の精神活動は自然的・直接的な心理過程が心理的道具(=言語)を媒介とすることによって間接的な過程に転化する。
②人間の内面的な精神過程は、精神間機能から精神内機能へ転化することから生まれる。
②の説明
人間に特有な高次の精神活動は、最初は、他の人々との協同作業のなかで、現れる。
ここでは、外的な「精神間 interpsychical機能」として現れている。
それは、やがて、個々人の「精神内 intrapsychical機能」となっていく。
言い換えれば、論理的思考や道徳的判断、意志などの様式に転化していくということ。
ことばの発達をみていると、このことは明らか。
まず、コミュニケーション手段として発生することばは、やがて、<内言>に転化し、ことばは、子ども自身の思考の基本的方法となる。内部的精神機能となったと考える。
さらに重要なことに、これは、ことばだけにあてはまるわけではないということ。
ことばと結びついて、論理的思考も、道徳的判断や意志の発達も、まわりの人間との相互関係から発生する。
集団的遊びのなかで自分の行動を規則に従わせる能力がまず発生し、そのあとで、子ども自身の内部的機能として、行動の意志的調整が発生するという順番をたどる。
ここで、ヴィゴツキーは、子どもたちが協同のなかで学ぶことの意義をみとめる
教授の本質的特徴は、教授が<発達の最近接領域>をつくり出すという事実にある。すなわち、いまは子どもにとってまわりの人たちとの相互関係、友だちとの協同のなかでのみ可能であるが、発達の内面的過程が進むにつれて、のちには子ども自身の内面的財産となる一連の内面的発達過程を子どもに生ぜしめ、呼び起こし、運動させるという事実にある。(『発達の最近接領域の理論』pp.22-23)
どうやら、教師の必要性は、まだまだなくならないようだ・・・。
ただ、ヴィゴツキー自身が語るように、もし、学校の先生が、「効率よく教える機械」のようになってしまうとしたら、教師の必要性は著しく減少すると、ぼくは思っています。
今回は、整理するために、柴田先生の書いてくださっているこの新書を開きました。
もちろん、この本でも強く薦められているこちらが、さらに考えを深めてくれます。