ぼくのきせき

「子どもの心に火を灯す ⇄ 自分の心に火が灯る」 実現めざした学びの軌跡

日本語学級|海外からやってきた子どもが感じていそうな問題、トップ3

こんかいは、いつも見ている子どもたちから感じる、「海外からやってきた子どもが感じていそうな問題、トップ3」を考えてみたいと思います。

だから、ちょっと日本語学級のはなしです。

 

 国際化の進展に伴い、日本語指導を必要とする外国人児童生徒を受け入れている公立学校が増加しており、このような外国人児童生徒が学校生活に速やかに適応するためには、学校における効果的かつ効率的な日本語指導が必要である。

学校教育におけるJSLカリキュラムの開発について:文部科学省

 

 

 これは、平成13年の段階で、文科省もっていた見解です。

 

 この見解のあと、このように述べています。

 

しかしながら、日本語の初期指導から教科学習へつながる段階の日本語カリキュラムが必ずしも十分に確立しておらず、各教員の努力に委ねられているのが現状である。

学校教育におけるJSLカリキュラムの開発について:文部科学省

 

 

 この現状は、どのように変わってきたのでしょうか。

 ぼくはいま日本語学級に所属しています。

 ここでの日々は、一生懸命日本語を学ぼうとする子どもたちとの日々なので、とても大きなやりがいを感じて仕事をしています。保護者の方も、子どもの教育のことをよく考えいます。だから、通級で通ってきている保護者の方とは送り迎えの時、また、本校に通っている子どもの保護者とはことある毎に、教育の話や雑談などを楽しくさせていただいています。

 

 でも、上の指摘に関しては、ぼくは、それほど大きく前進しているとは思えません。

 平成13年といえば、ずっとずっと前の話。

 間違いなく日本語指導を必要とする外国人児童生徒は多いのにもかかわらず、学校でできることはあまり変わっていないのではないか、と思います。

 

 ぼくがこの日本語学級につとめるようになってから、いろいろな角度から、「むずかしいな」と感じたことがありますので、ちょっとそれを紹介したいと思います。

 

 まあ、言うなれば、

 独断と偏見による、

  

えっへんたろう的 海外からやってきた子どもが感じていそうな問題、トップ3です。

 

 

1.みんな、おんなじことを知っている。わたしは、知らない!!

 日本では、学習指導要領をもとにして、教科書を作って授業をしていきます。

 これは、ぼくたちにとっては、「当たり前」のことで、そのこと自体は、よいことだと思っています。が、日本語学級に来て少し見方が変わりました。この指導要領を基にした指導は、とても計画的だし、どこの学級でも決められた内容を教えられるという意味ではとても大きな役割を果たしているけど、これがために、「画一的な雰囲気」が作られているのかもしれない・・・、と。とくに、教科書至上主義とでもいいたくなるぐらい教科書を大切に扱う先生の学級では、子どもたちのもっている知識・理解が、フラットであることがのぞまれます。日本人の子どもだけの教室をもっていたときには、そのことについてあまり気にならないかもしれません。よいところは、転入生が入ってきても、日本国内の転入であれば、基本的に学習している内容が同じということは、先生にとって、とても大きなことです。

 

 でも、これは、「日本国内の転入であれば・・・」なんです。

 国をまたぐ場合、これが機能しなくなります。そうなると、そういうときに子どもを指導することに、先生たちはあまり慣れているとはいえません。そうすると、この子どもたちとともに授業を作っていくのが、実にレベルの高いことになります。

 

 子どもの目線から見れば、日本の子どもたちはみんな同じことを知っているのに、わたしだけ知らない・・・・ということが、山ほどあるわけです。

 見ての通り、このようなことの背景には生活経験の類似性だけではなく、カリキュラムの組み方の問題や、先生・学校の授業観もあります。

 

2.友だちを作るのが、むずかしい!!

 子どもは、一生懸命友だちを作ろうとします。

 まあ、本当はここにも語弊があって、なかには、「ひとりが楽」という子どももいるかもしれませんが・・・。

 でも、とくに中学年以上になってくると、子どもたち特有の、グループ意識が出てきます。とくに、みていると、女の子に多いのでしょうか。Aちゃんのグループとか、Bちゃんのグループとかができあがってくるわけです。日本の子どもたちは、そのときの、「空気感」をみながら、自分の距離感を考えます。それは、まわりの大人にも分からないような世界です。とくに、男のわたしには・・・。日本人の女の子たちだって「そんなに居心地がいいわけじゃない・・・」と感じていることもよくあるようですが、海外からやって来た子どもたちにとって、「わけのわからない事態」として映っています。

 ぼくの知るひとりの女の子は、やっぱりこの問題に悩みました。彼女はまじめな性格で、彼女が出した答えは、「わたしがなじめないのは、わたしの日本語が上手じゃないからだ」というもの。このように考えるのもわかります。そして、一生懸命日本語の勉強をするようになります。

 ここまでなら、いい話のように思えるのですが、でも待っていた現実は、「一生懸命やっても、輪の中に入れない」ということでした。それはそうです。日本人も日本語がしゃべれたって、どういう距離感がよいのか分からないとき、あるのです。日本語だけの問題じゃないのです。でも、あきらかな問題があると、どうしてもそこに原因をみてしまいがち。それは、だれでもそうですよね。その子の様子を見ながら、「なるほど、友だちを作るって、むずかしいな・・・」と感じた次第です。まあ、1クラスで複数人、海外からの子どもが入ってきているならば、すこし雰囲気は違うのかもしれませんが・・・。

 

3.「どこまで?」がむずかしい

 これは、保護者の問題として浮上することが多いですが、保護者どうしで話をするときに、どこまでオープンにして、どこからをクローズドとするかが、難しいということです。表情では笑っていながら、じつは、心の中はそうではないという場面に遭遇することが時々あるらしく、そうなると、どうしてよいか分からなくなる・・・と、ときどき保護者の方からうかがいます。

 だから、ぼくの今の日本語学級としては、子どもどうしのつながりだけでなく、保護者どうしのつながりも大切にしています。「保護者も助けを求めている!」は、ぼくの、学校の先生としての大きなスタンス、テーマです。