ぼくのきせき

「子どもの心に火を灯す ⇄ 自分の心に火が灯る」 実現めざした学びの軌跡

授業|漢字指導を、先生ー子どもの関係を固定化させるシステムとみる。漢字練習は、なぜこうも、変わらないのだろう・・・

学校の先生をしながら、いつも普通に行われていることで、「??」と思っていることは、たくさんあります。(ぼくは、文化人類学を長いことやっていたので、その「当たり前を問う」ということが好きだし、ついついそうしてしまうのですが・・・。右京さん的にいうなら、「ぼくのわるいくせ・・・」)そのひとつが漢字指導なのです。

 

漢字指導って、不思議だと思っています。

ぼくたちも、子どもの頃、漢字の練習をしてきましたので、とくにあまり問わない方も多いかもしれませんが。そして、お子さんが漢字の勉強をしていても、保護者の方もあまり問わないかもしれませんが・・・。

  

漢字を学ぶときの子どもって、多くの場合、とっても受身的です。

「教える先生」と「教わる子ども」という構造が、とても象徴的にあらわれます。

 

・「とめ」「はね」「はらい」を正しく書きましょう。

 

・書き順を正しく書きましょう。

 

・きれいに練習しましょう。

 

みたいなことが、日常的に繰り返されます。

ここでは、「見る人」と「見られる人」が固定化されていて、「見られる側」は、本当は、「なんで、はねがないと×されるの?」と疑問を感じながらも、その疑問は封印されます。(ここには、ふつうに、力関係が現れる)

 

保護者の方の多くが、子どものノートを見るときに、一番気にするのは、「綺麗にかけているかどうか・・・」です。

懇談会などでも、「うちの子どもの漢字ノート、最近きたなくなってきています」ということはよく言われることにも、あらわれています。

 

ただ「綺麗に書きましょう」というのは、指導というよりしつけです。

教育というよりマナー・訓練です。

それが、小学校では、1年生からまかり通る。

むしろ、その訓練をしっかりできる先生が、1年生や2年生では「よい先生」と呼ばれたりする。

ぼくは、学ぶということとしつけということは、同じにしてはいけないと思っています。これを、ごちゃまぜにすると、子どもたちは学ぶことを楽しまなくなっていく。とくに、幼い頃に、「学習習慣をつける」とか「正しい姿勢を身に着ける」といった理由で行われるのですが、とくに幼い頃こそ、「学び」と「楽しい」が共存すべきです。

 

ぼくは思うんです。

「考えることなく、繰り返し練習することによって、覚える」

という漢字練習は、なぜこうも、変わらないのだろう・・・と。

 

 

子どもたちに漢字指導で学んでいることを次のように整理したら、どうでしょう。

  1.  新出漢字を学んでいる(もちろん、これは一番です)
  2.  先生の言う通りにするということを学んでいる
  3.  みんなで一緒に、同じペースで学ぶことの大切さを学んでいる
  4.  学びはしつけと似ている意味を持っているということを学んでいる

もし、こういう部分があるとすれば(まあ実際にあるのですが・・・)、我が子の漢字の学習については、少し考えたいところです・・・。何より、「新しいことを知りたい」とか、読みたいものがあって「読めないから知りたい」という思いが前面に出てきてほしい。「できない、わからない」だから「学ぶ」。この単純な構図から生まれることは、「楽しい」に繋げられるはずと、考えています。

 

「漢字が好き」っていう子ども、います。

で、その子に聞くわけです。「どうして好きなの?」

大体の子どもは答えます。「綺麗にかけたって褒められるから」。

そりゃ、そうですよね。誰でも、認められたら嬉しいです。でも、この「褒められた」の意味を考え直してみる必要があると思います。

「考えながら練習しているね」と認められたなら、まだ素敵だと思います。でも、まだまだ数少ないというのが、現場にいながらの印象です。

 

もちろん、「考える漢字指導」の大切さを訴える先生もおられます。(たとえば、元筑波大学附属小学校の白石先生など)でも、まだまだ少数だろうと思います。

 

子どもの漢字の学習に、その子どもの興味・関心は大切にされていますか?

ぼくは、漢字指導って、けっこう恐ろしいと思っているのです・・・