ぼくのきせき

「子どもの心に火を灯す ⇄ 自分の心に火が灯る」 実現めざした学びの軌跡

これまでの「学習」観を考えてみる。すると、「つまらない学び」というイメージにつながった。

ずっと考えている、これからの学校で必要とされること。

現在必要とされる学校とはどういうものか。

そして、それはどのように子どもたちの力になれるのか。

今回は、これらを考える時の根底ともなる、「学習」という言葉について考えてみます。

 

 

学習ってこんなこと

これまで、

そもそも、

「学習」

ってどんなものとして考えられてきたのだろう・・・。

 

 

それは、

こんな感じ。

 

学習とは、

学習者個人が、

頭の中に、

特定のまとまりをもった知識や技能を

獲得すること

 

 

さて、

ここでは

「特定のまとまり」

という言葉が使われています。

 

特定のまとまりというとき、

「〇〇のことを学習した」

ということが明確に指摘できる状態を想像しています。

 

たとえば、

この授業ではこういうことを学習する

という内容を明確に区切ることができることが想定されているわけです。

 

これら学んだことの「まとまり」は、。

次に学ぶことの「まとまり」と組み合わされることによって、

新しい姿をとるものと考えられています。

 

だからこそ、

まとまりは、

次からくるまとまりと

組み合わさることができるように、

一般的なものであったり

抽象的なものであったり

されることが望ましいと考えられています。

別の言い方では、

特定の文脈や状況から切り離された状態である

といえます。

 

 

評価ってこんなこと

学習をこのように捉えていると、

それを測る段階では、

 

どの程度

学習者が

頭の中に

「まとまり」としての知識や技能を

獲得しているか

 

という観点から捉えようとします。

 

そしてそれは、

「まとまり」としての知識や技能の

・正確さ

・信頼性

・妥当性

のチェックになります。

 

方法は、

「紙と鉛筆で解く」

ことが中心です。

なぜなら、「知識や技能」は、

頭の中で整理されていて、

問題の解決過程であらわれてくるものと

考えられているからです。

 

知識・技能を一般化されたものと考えることの帰結

獲得された「まとまり」としての知識・技能が確実だということは、

「いつでも」使えるとか、

「どこでも」使えるということだと考えられています。

 

だからこそ、

学習したことは、

テストで確認することができる

と思われているわけです。

 

一般化された能力を調べるために、

テストをする。

だからこそ、そのテストは

学習時に与えられた文脈とはかけ離れたものにする必要がある

そして、

個人でその問題に取り組み、

解決できる数が多ければ多いほど、

高得点という結果がかえってきます。

 

その結果は、

個人間の比較をするための

材料となるわけです。

 

このような学習についての捉えと、

その測定についての考えが導かれれば、

次は、教育とは何かということになります。

 

教育とはどういうことか?

結局、

上に見たように、

 

学習とは、

学習者個人が、

頭の中に、

特定のまとまりをもった知識や技能を

獲得すること

 

なので、

 

教育とは、

ひとつひとつの知識・技能の「まとまり」を

確実に子どもたちに伝達していくこと

 

となります。

もちろん、

子どもたちの発達段階に応じることや

知識や技能の体系に基づくことは大切です。

でも、

結局は、

 

子どもたちが学習時に入り込んでしまうような

個別的な状況や

具体的な文脈を離れて、

別の文脈でもその知識や技能を発揮できる能力を身につけさせること

 

が教育(=学習指導)の腕とされています。

そして、それがうまくできるのが、

優れた教師であると認められることになります。

 

ただ、これでは終わらないのではないか

なんだ、そりゃ当然だろう?

と思われる方もおられるかもしれませんが、

ぼくは、

このような前提は、もう崩れると考えます。

 

いや、もともと、これらの考え方は、

「学校」という場所を正当化するには都合の良い考え方だけれど、

結局、

子どもたちに、

<つまらない学習>

に向かわせる結果を作り出してきたのではないでしょうか。

 

だって、

考えてもみると、

 

あえて誤解を恐れずに言えば、

一般化された知識・技能のまとまり

というのは、

<使いやすい状態にしてある知識・技能のまとまり>で、

<いつか使うかもしれないから>たくさん身につけておこうというのが学校。

 

でも、そもそも、

必要なときのために蓄えるという行動は、

よほどその結果が見えていなければ、

我慢しにくいことではないでしょうか。

 

そうすると、学校はつまらないし、

(遊びは楽しい。なぜなら、遊びの目的は、もともとその瞬間を楽しむものだから)

学校で学ぶことはつまらないこと

なのです。

このようにすると、

学校に行くのがつまらないという訴えや

「学校って行かなければいけないの?」という疑問も

とても筋が通った考えである気がします。

 

ぼく的には、

「学習(学び)はつまらないもの」

ということを子どもたちに教えることが、

学校の先生として一番やってはいけないことなので、

このような考え方の温床となっているような

「学習」についての考え方とか

「測定」についての考え方とか

「教育」についての考え方

といったものを受け入れることはできません。

 

学びが楽しければ、いつか必要なときに、人は学ぶことができます。

とくに、「人生100年時代」とも言われる社会風潮を考えれば、

いつもが学ぶ時><どこもが学ぶ場所>

です。

ぼくは、ここまできて、

出発点の

「学習」をどのようなものとして捉えていけば良いのかを

探っていきたいというところにたどり着きました。

 

今日は、ここまでです。

 

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